10回生・向後 元彦

 線を一本くわえる。Aにいく。もう一本くわえる。こんどはZだ。おなじみの“あみだ籤”である。線を加えるごとに、予想もできない方向にいく。考えた。人生も“あみだ籤”なのだ。

しかし原理はおなじでも、もっと複雑なのが人生である。「塞翁が馬」とか「災い転じて福となす」といった諺を思い起こしてほしい。だから人生はおもしろく、悲しく、愚かで、意義あるものなのだろう。

 ぼくの場合はどうなのか。引かれた“線”は無数にある。しかし重要な線はさほど多くはない。
子ども時代の蝶々採りを一番目にあげてよいだろう。高校までつづいた。山岳部の山行でも捕虫網をもって歩いた。奥秩父全山縦走。霧が去り、たくさんのアサギマダラが花に群がっていた。平地では見られない蝶である。幻想的な光景、いまも忘れられない。

 やがて、山登りが優先するようになる。高校3年のとき、修学旅行のお金で、初夏の甲斐駒ケ岳・鳳凰三山を縦走した。初めての単独行。おなじ年の秋、一年部員のSをさそい、またまた学校をさぼって後立山に行く。黒部谷を隔ててそびえる新雪の剱岳に感激した。この二つの山行が忘れられない。これが契機となって山登りがぼくの生活のすべてになったからである。2番目の太い線がひかれた。

 むろん大学でも山岳部に入った。一年生の冬山は豪雪の大熊山・大日岳を経て剱岳に達する極地法登山。二年生の冬山は同じく極地法で北鎌尾根から槍ヶ岳、奥穂高岳を往復した。いずれも1カ月を要する厳しい登山だった。いい経験ができた。だが物足りない。大学山岳部に入った目的は、ヒマラヤだった。極地法登山をいくらやってもヒマラヤには行けない。

 “あみだ籤”にもう一本の線が引かれる。探検部設立である。そして幸運に恵まれ、1962年、カルカッタに向けて神戸港を離れることができた。旅は1年4か月におよんだ。いくつもの成果があった。ひとつは東ネパール。バルン氷河からカンチェンジュンガ氷河までを歩く。ポーターは一人、ときには自分で重いキスリングザックを担いだ苦しい山旅だった。

 二つ目は東北インド。ブータン(密入国)とインド・アッサム州――ブラマプトラ川をわたりサディヤまで行く――の旅。中印戦争の最中だった。完全武装をしたインド軍にたびたび出会った。

 三つ目は高峰登山。山岳部の遠征隊に参加し、トゥインズ(7350m)を7000mまで登った。その後、シェルパ一人を連れて2つの6000m未踏峰を登る(註1)。

 いまならば、誰でもできる旅であり、登山といえる。しかし50年前の日本は鎖国状態。渡航審議会―大蔵省などで構成される―なるものがあって、その許可がなければ、海外にでることすらできなかった。いまの若者には想像もできない時代だったのだ。

 ヒマラヤという太い線が引けたおかげで、人生が変わった。そして、さらに線が加わるごとに、予想外の人生が待っていた。南極最高峰を目指したこと(註2)。紀代美との結婚。家族ぐるみの探検(註3)。そして“マングローブの冒険”が40年ちかくもつづくことになる(註4)。

 人生74年がすぎた。これからも“あみだ籤”が待っている。いかなる展開になるのか、楽しみである。
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註1: 向後元彦(1962)『一人ぼっちのヒマラヤ』ベースボールマガジン社
註2: 向後元彦(1967)「ヴィンソン・マッシフ(5140m)-南極大陸の最高峰」『探検』pp.22-27 京大探検部。梅棹忠夫『裏がえしの自伝』pp.72-76 中公文庫
註3: 向後紀代美(1972)『エミちゃんの世界探検』毎日新聞社
註4: 向後元彦(1988)『緑の冒険-沙漠にマングローブを育てる-』岩波新書