1960年5月(昭和35年)南アルプス千枚岳 悪沢滑落の顛末
実行動 概略南アルプス悪沢岳・赤石岳山行計画(6泊7日)
「好天に恵まれたら残雪の南アルプス南部を駆け抜けようと考えていた」
12日晴 八王子 4:50-身延-新倉 12:30-伝付峠下蓬沢合流点で泊り(オカン)
13日晴 伝付峠-二軒小屋-マンボーの頭(小屋掛け泊まり)
14日雨 千枚岳-悪沢岳 11:30(ミゾレ交じりの強風 岩陰にツェルトでビバーク)
15日晴 全装備濡れた為赤石岳断念し千枚岳迄
下り濡れ物乾かす、11時半出発、市川下り途中で腐った雪に足を取られ悪沢に
滑落、高度差約550m距離約800m滑落する
滑落事故発生
5月15日(金)晴れ
午前9時、昨夜のビバークで先に行く事を断念、記念写真後悪沢岳を後にする。途中何度か引き返し、赤石岳迄行こうかと考えたが、現在晴れていても伊那谷にある雲が気になるし、何かついていないので出直そうと意見が一致した。千枚岳上方の雪の無い所で、シュラフその他全部濡れ物を乾かし11時半迄休む。千枚岳のピークを過ぎ、奥西河内のガレ場に沿って下山中、悪沢側はるか下方に人夫小屋と伐採道の来ているのを確認する。昨夜の雨で雪が腐って歩きにくく、台風で荒れた尾根を下るより、下に見えた道を下ろうと意見が一致する。稜線下10m位の所で、私が荷物を置いて、幅約30mの細いルンゼ状の雪渓を少し下り様子を見ると、雪渓は細いが下まで続いていて、悪沢の本流に合流しているのを確認、雪の状態も注意して下れば安全と判断した。
私は上の二人に下りられそうだと言って、市川が私のザックをピッケルで確保していたので、私のザックをここまで下ろせるかと言ったら、OKと言い市川、百瀬の二人で下り始めた。私は雪にステップを切りながら上に向かって約10m登り、私と市川の間が5m位になった時市川がバランスを崩し雪渓を滑り出した。百瀬の声に私はすぐに止めの姿勢に入ったが、16貫目の体とザック2個を足場の悪い雪渓で支える事は無理で、一時止まった様に見えたが、私と市川共に雪渓上をかなりのスピードで落下した。私は市川の足を左手で掴み、右手のピックで雪面にストップをかけていたが、途中で市川が一回転したと同時に、私は市川から離れ別々に滑落した。私が止まった時には市川の姿は見えず、上の百瀬との距離は50~60m離れていた。
幸いに私は無事だった。
上の百瀬に注意してゆっくり下るように言い、私はグリセードで下り始めたが雪質が悪く歩いて下りた。途中大滝があり滑落跡は遠くに飛んでいて着地点に血痕が散って、ザックのポケットが開いて中身か飛び出し、点々と散っている。私は滝つぼの雪の盛り上がり迄5m位を飛び降りて、ひらひら舞い散っている百円札を拾いながら急いで下り、雪渓上点々と血の散った跡をたどると、下方に市川を発見した。(1時、滑落したのは12時20分頃)
二個のザックは見当たらず、大声で市川と声をかけたが返答しない、近づくと雪上の灌木につかまり上半身を起こした状態で動かない、顔を覗くと顔面二か所にかなりの裂傷、頭部に一か所の裂傷、特に右目上の傷はめくれて垂れ下がって顔中血だらけの状態、出血がひどいので、私はランニングシャツを脱ぎ頭に巻きつける、約300m下方に雪の無い河原を見つけ、急な雪面は市川を一緒に抱いて滑り降り、緩くなってからはピッケルのバンドを足首に巻いて雪面を引っ張り1時半河原着、寒さで震えているので、靴、濡れたシャツ等脱がして私の上着を着せた。
やがて百瀬が無事に下りて来たので、私はすぐ二個のザックを探しに行くとすぐ見つかった、百瀬は市川を寝袋に寝かせた(2時20分)ザック回収が出来て、私の「何でも箱」が見つかったので傷の手当をする、顔面,頭部の出血ひどく心配なので止血の為、縫合する事にする、ローソクの火で針を焼いてV状に曲げ、消毒薬が無いので傷薬(キシロ軟膏)を針、絹糸に塗り、意識が朦朧として市川が暴れるので手足を縛り百瀬が馬乗りになって押さえつけた。
やがて百瀬が無事に下りて来たので、私はすぐ二個のザックを探しに行くとすぐ見つかった、百瀬は市川を寝袋に寝かせた(2時20分)ザック回収が出来て、私の「何でも箱」が見つかったので傷の手当をする、顔面,頭部の出血ひどく心配なので止血の為、縫合する事にする、ローソクの火で針を焼いてV状に曲げ、消毒薬が無いので傷薬(キシロ軟膏)を針、絹糸に塗り、意識が朦朧として市川が暴れるので手足を縛り百瀬が馬乗りになって押さえつけた。
私は鼻歌を歌いながら(気を落ちすかす為)右目上、左額,頭の中合計6針縫う、間もなく出血は止まったが、市川の意識ははっきりせず、顔中腫れ上がる(2時半縫合終わる)。
百瀬はツエルトを張り飯炊きを始める。
私は道探しに出かけて5分程小尾根を上った時、対岸に伐採人夫の動くのを目撃した。ツエルトに戻り百瀬と相談し、頭を打ったのが心配なので、救助を頼むことにした。
私が人夫の所に行き救援を頼むと、東海パルプ深沢組人夫7名がすぐ来てくれた(16時半)。すぐにヤッケ三枚の袖に二本の棒を通し急ごしらえの担架に市川を寝かせて、飯場迄30分位と言っていたが、足場の悪い藪の中を苦労して運び、暗くなって(19時半)飯場に着いた。 深沢組長の好意でオキシフル、ペニシリン軟膏で市川の傷の手当をする。21時晩飯を御馳走になり清酒一杯頂く。夜かなりの雨が降った。
けが人の搬出・治療・帰京
5月16日(土)
朝のうち雨,のち晴れる。
早朝起床。市川あまり寝られず。
深沢組の人達は、昨日作業中に怪我をした仲間の病人を、二軒小屋迄連れて下り、下の山崎組飯場に我々の救援を頼んだ。
7時20分 山崎組人夫11名が来て担架を作り、市川を寝袋に入れロープで縛り8時出発。
道がいいので早い。市川のザックも背負って、後をついていくのが大変だった。西俣本谷山崎組飯場で、人夫達が朝飯を食べている間、私のところに、二軒小屋浜田家のじいさんが来て、市川を見て「直ぐ治るからわしの家に寝かせとけ」と言った。私は人夫費用が安くなるので,市川の怪我だけならそうしようと思い、その旨頼むが、山崎組の人達は、頭を打っているから早く医者に見せた方が好いと言い、すぐ出発した。
担ぎ手を交代しながら、途中一回も休まず11時35分二軒小屋浜田家に着いた。浜田家で傷の手当をし、東電の電話を借り、東京の市川、馬場に電報を打つ。東海パルプ石田所長の好意で、人夫にそのまま協力してもらい、13時15分出発する。市川が担架の上で起き上がり、大声でわめきあばれて、担ぐのも大変だ。
伝付峠からは道がいいので早い、15時45分 新倉到着。診療所に運び診察してもらうと先生が傷は良く縫えていて、私に医学生か?と言い傷に赤チン?を塗っておしまい。脳震盪を起こしているから、早く東京の病院に連れて行った方が良いとブドウ糖を注射する。
浜田屋旅館に泊り救援費用の事を、東海パルプ会計の人、山崎組長と話し合い、我々は貧乏学生だからと提示額から1万1千円程負けてもらった。電話代を含め、4万9千3百40円支払う事を約束。
浜田家旅館から私の家に電話すると、市川父、私の兄が16日夜行で向かったと聞いて、明朝一番バスで新倉に着くと思い安心する。全身打撲の為か市川絶えず動き熟睡できずにいた。
17日晴、安心した為か宿の飯はうまい、市川に牛乳一本飲ます。事故後初めて旨そうに飲んだ。「どうだ旨いか」と言うと「オオ、べリーファイン」との答え、思わず苦笑する。
身延発1番バスが到着し、市川父と私の兄は、事故経過を聞いた後、市川を見舞い、思いのほか元気なので安心する。甲府迄タクシーを頼み関係者に謝意を伝え11時、甲府に向け出発。市川は我々の言う事良く理解し、タクシー、列車の乗り降りも両脇を支えて歩いた。夕方には武蔵境の日赤に入院して治療する。
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