8回生 高橋康昌

 道具が進歩したことで堕落もしくは衰退したスポーツがある。スキーとテニスがそれである。いまや、スキー場はどこもガラガラでリフトを外し始めたスキー場も多い。

 その責任はスキーヤーやスキー場経営者にはない。スキー連盟だとかスポーツ器具開発業者あるいはその周辺に蠢いている利益関係者の責任である。つまり、ごく少数の競技者は別としてスキーヤーは、あのスポーツを見放したのだ。

理由はスキー板にある

 しばらく私は仕事の関係上スキーから遠ざかっていたのだがこのほど久しぶりで上州のスキー場を訪ねてみて、驚愕した。というのは、なんと瓢箪の化け物かコブラ蛇の頭のような短かくて頭の先が広がった丸い板で滑っているのだ。かつて私たちが身長をはるかに超える細く長い板でクリスチャニアとかウェーデルンと称して両足を揃えて滑るのに何シーズンもかかった技術と滑りを、この瓢箪の化け物板を履けば、身の軽いひとなら一日で習得する、ストックなどいらないというのである。驚愕である。 

 しかし、その滑りを見ているとまことに醜悪で美しくない。そのかわりターンがするどく、タイムをとるとこのほうがずっと早いのだそうである。古アテネの祭典以来どんなスポーツも、身体の躍動美を楽しむものである。とりわけスキーは華麗な身体的運動表現と爽快感をもって成立したスポーツであった。きれいな弧のシュープを描きながら滑る上級者を見ながら、いつかあそこまで行きたいと念じて毎年スキー場へ通った記憶は誰にもあったはずである。

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 いまスキー場を訪ねて、あの醜怪な板を履き、きたない姿態で体をゆすりながら滑っているスキーヤーを見ているとこのスポーツに絶望を感じる。もはやスキーというスポーツに感動する人間はいない。あれならいっそのこと、ボードの方が面白そうだと若者が感じるにちがいない。

 スキーは、ジャンプやサーカス的感覚を楽しむモーグル・滑降など危険な競技スキーだけが生き残り、多分そう遠くない日に、消滅するにちがいない。つまりこのスポーツは、夢を失ってしまったのだ。

テニスも器具の変化がこのスポーツの優雅さを奪ってしまった。私は、木製のラケット以来のオールドテニスファンなのだが、いまは、カーボンフレームを使っている。やむを得ない。軽くて、弾性にすぐれ、スウィートスポットが大きいので、やめるわけにいかない。

 しかしこれもまた、器具の変化により、高速のサービス合戦のようになってしまった。かつて芸術とさえ呼ばれたK.ローズウオ―ルの華麗なテニスを思い出してほしい。テニスの優雅さとゲームの楽しさは高度なゲーム展開とラリーの応酬にあったのだが、ラケットの変化によって、高い身長と強力な筋肉の保持者が優勢に立つという格闘技に堕落し、まことに散文的な奥行きのないスポーツになり下がってしまった。

 国際級のゲームでは、サービスの応酬でゲームが終始するという事例が一般的になってしまった。短身で膂力に乏しいアジア人が上位に進出することは奇跡的という時代となった。

 しかしテニスには救いの余地があるかもしれない。それには、サービスを一本だけにするのだ。木製ラケットの古き良き時代の二本サービスには、それなりの理由があったのだが、いまは、強靭なラケットによる破壊力を抑制するため、サービスを一本だけとし、ゲーム構成力やラリーの巧拙が勝負の決め手となるようにルールを改正すれば、問題は解決するはずである。

 スキーの場合、板を元に返せるであろうか。否である。これには巨大な利害関係者の利益がかかっているし、すでに瓢箪の化け物板で業績をあげてきたスキーヤーの既得権も守られることになるであろうから。残念ながらこんな問題でも、歴史は逆行することはない。

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