4号_C01
11回生・戸張 至聖

私がこのネパールと関わるようになって 40 年が過ぎようとしています。以下は、私が観てきたヒマラヤの国ネパールの今日までの時代区分です。大雑把で通俗的であることをおことわりしておきます。世話談義を超えてはいません。

『山の時代』
 ネパールがおよそ100年にわたる鎖国を解いた、ヒマラヤの 1950 年代は 「山の時代」 です。8000m 峰の初登を狙って、各国の遠征隊が押し寄せました。最初の 8000mはフランス隊のアンナプルナⅠ峰 (1950 年)でした。最高峰のエヴェレストはイギリス隊(1953 年)。日本隊はマナスルでした。大学山岳部の 「選ばれた人たちだけの遠征」 でした。登頂に成功した 1956 年は私が 16 歳(武蔵高校1年生)のときでした。8000mの主峰のすべてが 50 年代に登られました。

『王政復古の時代』
 トリブバン国王がインドの助けを受けて王政復古を遂げたのが 1951年。「王政復古の時代」 ともいえるでしょう。1950年は朝鮮戦争が勃発し、1953年休戦協定が結ばれ、一応安定の方向に向かっていきました。

『学術調査の時代』
 60 年代は 「学術調査の時代」 です。民族学、疾病、農業、言語、宗教、地質、雪氷等の学術調査隊がやってきました。このころの学者 ・研究者達がネパール学 ・ ヒマラヤ学の方法を確立したといっていいでしょう。「選ばれた人たちだけのヒマラヤ」 は続きます。私は大学山岳部の学生時代で、次々に出版されるいろいろな学術報告書をわくわくしながら読みました。

『強力な絶対王政の時代』
 1959 年に立憲君主制の政党政治(第一次民主化)を始めますが、翌 1960 年にマヘンドラ国王が憲法を停止して内閣 ・国会を解散させ、王政を敷いた時代です。「強力な絶対王政の時代」 といってもいいでしょう。

『観光の時代』 ヒマラヤの大衆化時代の幕開け
 70 年代はまた山の時代に戻ります。「観光の時代」 といってもいいでしょう。欧米各国は戦後を乗り越え、ようやく経済に余裕がでてきました。日本はOECDに加盟し、ようやくすべての国民が観光で外貨を使うこともできるようになって、遠征のみならずトレッキング客が殺到しました。ネパール政府も遠征隊に対処してきたのは内務省でしたが、観光を扱う観光省を設置しました。そしてポーターの手配も政府直営?のヒマラヤン ・ソサイエティーから民間の観光会社になりました。今の観光の姿ができたのもこのころです。70 年後半から、トレッ
キング商売が確立されたといっていいでしょう。大小社会人山岳会の遠征隊やトレッキング隊が目立ちます。「ヒマラヤの大衆化時代の幕開け」 といえそうです。例に漏れず、私も 1974 年秋にヒマルチュリ遠征隊を組織して登りに来ました。34 歳でした。日本隊のマナスル初登からおよそ 20 年後のことです。


『安定した絶対王政の時代』
 絶対王政はマヘンドラ国王からビレンドラ国王に引き継がれ(1972年)、90 年の民主化運動の激化まで続きます。「安定した絶対王政の時代」 といってもいいでしょう。1945年に始まったインドシナ紛争は 1975 年のベトナム戦争でのアメリカの敗北によって、終結しました。30年間の長期にわたる戦火をインドシナの人々は耐えました。植民地化をアメリカ化を命を懸けて避けました。反して、わが日本は敗戦によってアメリカ化?を選んだことになります。

『援助の時代』
 80 年代は 「援助の時代」。各国それなりの経済発展を遂げ、貧困国の援助に乗り出します。日本も ODA の援助資金によって、道路、水道、電気のインフラ工事を活発化させた時代です。山岳部のOBで援助のお仕事でネパールに長期に滞在された方々がおられます。民間の NGO が賑わったのもこのころです。カトマンズの日本料理屋も 80 年代に開店した店が目立ちます。私の関わった 「古都」 も 1984 年の開店です。ヒマラヤ山中はトレッキングのお客さんで溢れかえっていました。

『民主化の時代』
 90 年代はイデオロギーの終焉の象徴でもある、ベルリンの壁の崩壊に始まる 「民主化の時代」 です。例にもれずこの国でも1990年、絶対王政は崩壊して、立憲君主制の政党政治が始まりました(第二次民主化)。共産主義政党が生まれました。極左の毛沢東派は 96 年に旗揚げしました。観光のお客さんは 99 年には 46 万人に及びました。「超大衆化時代」 でしょうか。そんな状況を甘く見て、1999 年にロイヤル華ガーデンという和食レストランと露天風呂を始めましたが、2000 年に入って予想できない事件の連続によって、苦戦を強いられました。しかし 「継続は力なり」 皆さんのおかげでやってこられました。

『混乱の時代』
 2000 年以降は「混乱の時代」です。2001 年のマヘンドラ国王の暗殺、マオイストの武装闘争の激化、マヘンドラの弟ギャネンドラ国王のクーデター、反国王の大規模デモ、制憲議会選挙、マオイスト政権の崩壊と混乱は続いて来ましたが、ようやく2015年9月新憲法が公布されました。「7州連邦制の世俗国家」になりました。最大の懸案だった州の区割りでは政党間合意が何度も具体的には今後発足する委員会で決定することになっています。
 新憲法をめぐっては、種族の利害の対立からデモ隊と治安部隊の衝突が発生し、多数の死者を出しており、火種を残す形となっています。民主主義は人々が平和で幸せな生活を送ることができる社会を世界を創造するための考え方やその方法つまり手段です。そのエンジンは多数決です。多数決だけで、多民族、多言語、多宗教つまり価値観の異なる民族を治めることは至難のことです。2015年4月と5月の2回にわたる巨大地震からの復興とあわせて、新しいネパール国の建国には多くのご苦労をともなうに違いありません。