60年前の夏山合宿 提 供 8回生 馬場健治
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 昭和32年(1957年)南アルプス中部縦走記7月20日~29日(10日間)
(3年)CL並木祥章、SL百瀬 彰(2年)宮崎紘一、遠藤考継、小林 宏、(1年)土屋正忠 奈良 晋、岸 靖夫、OB野沢正勝、川越啓次|武蔵高校職員   井上 久

*コース概略:7月20日:新宿夜行21日:甲府~身延~バス奈良田~大門沢小屋、22日:
広河内岳~池の沢小屋、23日:風雨の為停滞、24日:~塩見岳~三伏峠小屋、25日:~高山裏露営地、26日~27日風雨の為停滞、28日~西股沢を下り二軒小屋、29日:~伝付峠~新倉~バス~身延~甲府~立川
*23日24日、風雨、強風での停滞日は梅雨前線の影響で九州、諫早市、熊本市で死者856人を出した「諫早豪雨」の為でした(注、馬場)
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《山行後感     1年:奈良 晋》
夏山----重いニモツ、馬鹿気おびて照りつける太陽、まばゆい程輝いた青い空、茶色おびた岩石、渋い茶色の這松etc.-----,目に浮かんで来たのはこんな景色でした。夏休み前のあわただしいうちに出発の日になった。22日:0時10分全員11名は多数諸氏の見送りを受けて新宿より勇躍出発の途についた。大門沢小屋迄のアルバイトである。天候は曇りのち雨といった所で今後の天候回復と期待と山へ来た喜びとで胸の内をかき立てていた。そして早く三千米のピークをふんでみたいという気持ちとで。23日:大門沢をつめて農鳥岳続きの稜線に出て、池の沢に下るコースでありこの山行中一番つらかったようだ、この日も曇り及び雨であった。ガスの間から太陽が顔を申し訳程度に顔をだすと奇声をあげて喜びあったが、それに太陽も驚いたのかすぐに身を隠してしまった。池の沢の下りは大きく茂った木、人間一人として会わない程山奥だということを深く感じた。雨、そして深山、何かわびしい感じがした。小屋が目の前に現れた時は正にジゴクでホトケに出会った気持ち。24日:本日は停滞。昨日と同じような天候であり、まったくやりきれない事だ。小屋の中は他の一パーテイーと、山で生活している人々。彼らの生活は何かのんびりしたファイトのある生活だ。素朴である。25日:朝起きてみると空には星が無数に広がり、今日こそはと、たまらなくうれしく感じてくるのがどうする事も出来なかった。夜の幕を開くやいなや出発。沢をつめ稜線に出た時、これから塩見岳に登れると思うとうれしくてたまらなかった。山に登るということが貴い物の様に感じられる。塩見岳で南アルプス全山、雲海の中の中央アルプス及び北アルプスまでもが望まれた事はまことに快適そのものである。この時の気持は今までの苦しかった事に値するものがある。又、三伏峠に着いて水を飲んだ時のうまさ。山の水をうまいと感じてこそ「山を語る資格あり」などと何かの本で読んだが、資格がなくともうまいと感じたのである。25日:朝大変寒いと感じ盛夏の暑さなど、どこかしこと言った所。三伏峠より高山裏露営地迄だが烏帽子岳、小河内岳あたりは大変気持ちよく歩けた。印象に残る所であった。空の調子は晴れるとは思われたが、午後あたりより、又明日もダメでないかと不安な気持ちが頭を持ち上げて来た。高山裏露営地でうまいサラダを食べている時、再度泣き出してしまったのである。なぜ天はそんなに嘆くことがあるのだろうか。こんな時に限って26日、27日本日停滞。食料引き伸ばし戦法。なにしろ強風と雨で外に出られず、せまいテントの中なので、ともすると下界の事を思いだしてしまう。又空腹なるが故に俺はラーメン、俺はアンパン等々、皆本音を表したようである。リーダーの明日の予定発表で、明日も雨だったら荒川岳方面断念して下る。どうしても晴れてもらいたかった。28日:本日も雨、小西俣沢を下る事にした。残念である、案じた道も良く、早く二軒小屋に着く事が出来た。まったくいやなもので天気は二軒小屋に着くころには晴れてしまった。夜見た星はこれまた美しかった。これで山とも別れ明日は下界へ下るのだと思うと何かあっけなく思われる。始めに想像したこととはまるっきり反対のことであった。がしかし、それはそれで次の夏山へ来る時の期待となるだろう。そしてそのような景色をも見ることも可能となるであろう。この悪条件の中における山旅も今後の山行のための良き参考であった事は云う迄もない。29日:下りながら眺めた富士の雲海は美しく、又次に山へ行きたくなる気持ちを揺り起こした。最後に強く感じた事を書くと、行動食の場合、量をもう少し多くして、幾分なりとも水気のあるものを含む事、又長い山行は非常食を充分に用意する事、又ラジオ等も必要に感じた。先輩をはじめ上級生の人々に色々と指導していただいた事を感謝します。 

《山行後感  二軒小屋にて 1年 土屋正忠》
我々が歩んできた道、それは、他の何者も歩んだことのないような、苦しい崇高な道に思えた。「ねえあなた、そうじゃ有りませんか、私共はあんな険しく恐ろしい道を歩いて来たのですもの」そう言う私は、自分と常に一緒にいる、自分の影というものに話かけた。「時には、岩陰の鋭さに身をこわばらせ、ガレの下方の水の流れの恐ろしさに目をみはり、寒さをうらみ、たたきつけるような雨をのろい、そして、お日様が出るのを祈ったのですから」「でもそんな苦しい事ばかりでは御座いますまい。地上の楽園たる花畑に戯れ、岳かんばの木々、岩魚と遊び、雨の去った後の夕焼けの美しさをいとおしみ、雪投沢をつめたガレでは、眼前に拡がる白根の山々を望み、三千米の神々の座の頂に立って、周囲の鋭鋒を足下に見下したのですから、そう嘆いたものではありませんよ」と、自分の影は答えた。そして続けた。「貴方、思い出に酔ってはいけません、貴方にはやることが有ります。それは今迄の事を土台としてその上に立つことです。貴方はまだ山に入ったばかりではありませんか、貴方の前には洋々とした未来があります。未知は幸福です、その幸福を、知った時にも幸福とする為今度の山行を土台として下さい。そうです、そしてその上に立つのです、未来に向かって手をふって下さい。一人で話してごらんなさい、そうそう、貴方は今疲れています、もう話はよしましょう、お眠りなさい------」そう薦められて横になった。「こら、土屋、何をタルンデ寝ている」先輩がそうどなったのは、これから十分余りの事だと記憶している。二股小屋幕営地の昼下がりのこと---------。

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*奈良、土屋両氏の文章は原文を大切に写実していますが、読みやすいように一部漢字を当てました。
8回生:馬場健治